2014年05月17日
日本初のヌードポスター
取り調べ、勘当、波乱の人生「日本初のヌードポスター」モデル女性の“その後”…大正12年、サントリーHD「赤玉ポートワイン」
msn産経ニュースwest 2014.5.12 07:00
甥の川島徹さんが撮影した晩年の松島栄美子さんと当時のポスター=昭和58(1983)年
大正時代の「赤玉ポートワイン」のボトル(サントリーホールディングス提供)
ずっと気になっていたポスターがあった。ワイングラスを胸元に、モナリザのようにほほ笑む女性。これはぶどう酒「赤玉ポートワイン」宣伝のポスターで、今でも酒屋さんやスーパーで時々見かけることがある。少し調べてみると、このポスターが、大正11(1922)年に制作された日本初のヌードポスターだったことがわかった。手がけたのはサントリーホールディングス(大阪市北区)の前身「寿(ことぶきや)屋」。女性が人前で肌を露出することが許されなかった時代。その後、モデルの女性は警察の取り調べ、親からの勘当…波乱の人生を送っていた。(上岡由美)
衝撃的なポスター
「ポスター制作の経緯やモデルに関しては当時のことを詳しく知る人はもう社内にはいません。ただ宣伝部の片岡敏郎を中心に制作したことなどが語り継がれています」。同社広報部はこう説明する。
明治32(1899)年、鳥井信治郎が「鳥井商店」を設立、39年に「寿屋洋酒店」に社名を変更。40年に「日本人の舌に合うワインを」と今の事業の原点となるワインを発売した。赤玉の赤い丸は「太陽」を表し、米1升が10銭する時代に赤玉1瓶は38銭とかなりの贅沢品だった。
「いいものを作ってもそれを知ってもらわないことには売れへんのや」という創業者の信念のもと、このヌードポスターは誕生した。
関係者の見つからない現在、懐古談やインタビュー、取材を紹介した書籍だけが事実を知る手がかりだった。
撮影は極秘裏
もともと片岡さんは広告界の鬼才といわれた人で、企画や宣伝広告は斬新で意表を突くものが多かった。なかでもユニークなのが赤玉を売り込むために組織されたオペラ団「赤玉楽劇座」。販売店主らを招待し、興業しながら全国を回った。この劇団のプリマ・ドンナが、くだんのポスターのモデルに起用された松島栄美子さんだった。
撮影は大正11(1922)年5月、大阪市内の写真館で行われた。当日の様子は山口瞳・開高健著「やってみなはれ みとくんなはれ」(平成15年、新潮社)に詳しい。
《写真館のほうも、はじめは驚いたが、スタッフの熱意にうたれ、ポスターの撮影のある日は表戸をおろして客をことわってしまった。(略)はじめのうちは、松島栄美子は着物を着たまま写された。つぎの回は肌着姿になり、そのつぎはというふうに上半身を露出していった。彼女にも、どんなポスターになるかということがだんだんにわかってきた》
反響すさまじく
スタジオに延べ6日間も缶詰めにされ、1ポーズにつき50~60枚もの写真が撮られた。
完成したポスターは、渋いセピアなトーンでまとめられ、グラスの中のワインレッドが色鮮やかに映え、全体に上品な感じに仕上がっている。撮影から1年後、ポスターが完成するとその反響はすさまじく、赤玉は驚異的な売り上げを記録したほか、ドイツで開かれた世界ポスター品評会でも1等に入選した。
さらに、杉森久英著「美酒一代-鳥井信治郎伝」(昭和61年、新潮社)にはこう記されている。
《絶対秘密とされていた。中途から真似する者の出ることをおそれたのである。風俗取締りがきびしくて、裸をあらわにすることに対して病的に神経質だった当時の日本(略)その後しばらくして、松島栄美子が大阪へ来て、住吉町の寿屋本社を訪問したところ、問題のポスターのモデルを見ようと集る人が、店の前に黒山を築いた》
ネットに手がかり
警察からは風紀紊乱(びんらん)に当たると取り調べを受けるなど、そんな“タブー撮影”に挑んだ栄美子さんはどんな女性だったのか。ますます彼女への興味が沸くが、「赤玉楽劇座」も興業資金が続かず1年で解散してしまっている。
広告資料を調べたり、大阪の地域史研究家に問い合わせたりしたが、栄美子さんの消息はわからなかった。そんな中、インターネットを何度も丹念に検索していると、1枚の写真が見つかった。なんと晩年の栄美子さんがポスターと並んで写っていたのだ。
撮影したのは甥(おい)で東京在住の写真家、川島徹さん(76)。妻の由貴子さん(71)がブログにアップしたものだった。
《主人の伯母は、築地小劇場の女優でのちに歌劇団「赤玉楽劇座」のマドンナでした(略)今はどうってことはありませんがその当時、胸元から上の裸は、インパクトが強く、好評だったにもかかわらずこの姿は、若い娘がやることではないと、姉弟、親戚中から批判され親から勘当されたそうです》。こう綴っている。
モダンできれいな人
早速、取材を申し込んだ。すでに栄美子さん、そしてその息子さんも約10年前に亡くなっていた。
「僕が物心ついた頃にはしょっちゅう家に行っていましたよ。伯母は本郷に住んでいましてね、畳敷きにお膳の時代に、テーブルとソファという洋式的な生活をしていました。モダンできれいな人でしたよ」と川島さんは振り返る。
栄美子さんは川島さんの父親の一番上の姉で、4人姉弟だった。オペラ団が解散した後、東京に戻り、戦前にNHK職員と結婚したという。老後は東京・高田馬場のアパートで生活。川島さんが撮影した写真は亡くなる直前に自宅で撮ったもので、昭和58年4月7日、トイレから出て「気持ちが悪い」と言い、息子さんの膝にもたれかかったまま息を引き取ったという。90歳だった。晩年は、幸せな静かな人生だったという。新聞の片隅に数行の死亡記事が掲載された。
【配信元】NPO法人 百人の会
う~ん、艶めかしい
今でも充分
じゃあな
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