2011年12月11日
3つの薄汚い顔
『日本が悪かった
日本だけが悪かった』
とされる『東京裁判史観』は
矛盾している
じゃあな
【軍事情勢】3つの薄汚い顔
【サンケイ エクスプレス 2011/12/04 】
26代大統領セオドア・ルーズベルト
第32代大統領フランクリン・ルーズベルト
子と戯れる時の「父の顔」と、仕事中の「男の顔」は違う。国民の「英雄」は、外国人には「仇敵」である事が多い。米国第26代大統領セオドア(T)ルーズベルト(Theodore "Teddy" Roosevelt 1858~1919年)が息子クエンティン(6)に宛てた手紙(1903年)が昨春、競売にかけられた時、彼もまたそうした類の人物であったのだと思った。
235万円で売りに出された手紙は、スケッチを交え、旅の様子をこう伝えている。
《お前を心から愛している。スケッチは私の鞄や衣類を運んでいるラバの絵。約20頭が一列になって、山道や小川を上り下りしているんだ》
クエンティンは6人兄弟の末子で、父の一番のお気に入り。大統領就任時はまだ3歳だったが、ホワイトハウスではやんちゃで人気があった。ところが、第一次世界大戦が勃発すると、強固な開戦論者だった父の勧めで陸軍航空部に操縦員として入隊、フランスでの空中戦で弱冠20歳で戦死(18年)した。ルーズベルトは大きな衝撃を受け、翌年に亡くなるまで、立ち直る事ができなかった。
子煩悩であると共に、米国民からは国益貢献や指導力を高く評価された。スペインとの米西戦争(1898年)では海軍次官を辞して義勇兵を募り勇敢に戦うなど、カウボーイ的男らしさが人気を集めた。実際「偉大な大統領ランキング」では常時上位に入っている。
■日本贔屓から敵視へ
しかし、我が国にとっては、悪魔の如き仇敵だと言わざるを得ない。仮想敵国を色で表現した長期戦略「カラーコード戦争計画」策定を1904年、陸海軍統合会議に下問。とりわけ、対日戦争は「オレンジ計画」として積極的に検討され、日本は大東亜戦争(1941~45年)へと引き寄せられていく。
元々は日本贔屓だった。明治三十七八年戦役(日露戦争、04~05年)では停戦を仲介、ポーツマス条約にこぎ着けた史実は有名だ。「古人曰ク勝ツテ兜ノ緒ヲ締メヨト」の結びで有名な、大日本帝國海軍聯合艦隊司令長官だった元帥海軍大将・東郷平八郎(1848~1934年)の「聯合艦隊解散之辞」に感銘し、英訳文を米軍将兵に配布。忠臣蔵の英訳本を愛読していた。米国人初の柔道茶帯取得者でもあった。
ところが、いつのからか敵視する。日露戦争後、急速に台頭した帝國を警戒し始めたとする説。また大統領就任後、ハワイの日系移民の本土移住や日本人労働者の入国を禁止するなど、通称排日移民法(1924年施行)の前提条件を整えた事で、大統領就任前から敵視政策を温めていたとの見方もある。
■さらに狡猾だった従弟
さて、このT・ルーズベルトの従弟が第32代大統領フランクリン(F)・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt 1882~1945年)。この従弟は、従兄に比べても狡猾で暗い。いわば、オレンジ計画を従兄が立案し、それを従弟が実行に移したと言える。
動かぬ証拠がある。F・ルーズベルト大統領は1941年7月23日、陸海軍長官連署で提出(7月18日付)された陸海軍統合会議の「対日攻撃計画書=JB355」を裁可した。計画は、10月1日までに戦闘機350機とB17など長距離爆撃機150機を中華民国に供与して、民国内の基地から東京・横浜・大阪・神戸・京都を爆撃する-という内容。民国軍に担任させる一方で、中核は義勇兵を装った米陸海軍の操縦員や搭乗・地上整備員が請け負った。
そうとは知らない帝國はこの頃、野村吉三郎大使(1877~1964年)を中心に必死で戦争回避交渉を続けていた。確かに、帝國が南部仏印に進駐したため米国は8月1日、石油をはじめとする戦略資源の全面禁輸と日本資産凍結を断行した。だが、それは口実に過ぎず、はるか以前から開戦を決心し戦略・戦術を練り、その実行を命じていた。
■筋違いの「だまし討ち」
実行されなかったのには訳がある。9月末から10月にかけて欧州正面が緊迫し、爆撃機を投入せざるを得なくなったのだ。
斯くなるをもって、米国人の多くが12月8日の真珠湾攻撃を「卑怯なだまし討ち」と信じ、怒るのは筋違いだ。むしろ、自衛権の発動だと言い切れる。聯合国軍最高司令官総司令部=GHQ最高司令官だった米陸軍のダグラス・マッカーサー元帥(General of the Army Douglas MacArthur.1880~1964年)も1951年5月3日、米上院軍事・外交合同委員会でこう証言している。
『日本は、絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。
もしこれらの原料の供給が断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。』
ロークリン・カリー大統領補佐官(ソ連工作員)
しかも、早くも5月段階で、大統領補佐官ロークリン・カリー(Lauchlin Bernard Currie 1902 – 1993)が、F・ルーズベルトに計画を進言していた。大統領も進言からわずか6日後に内諾を与えている。ところで、カリーはソ連工作員だと後に判明する。ソ連が対日戦を回避し、主力を欧州対独戦線に投射できる流れを創り出した、ソ連にとっては殊勲者。帝國は、主戦と避戦というF・ルーズベルトの2つの顔と、その背後で暗躍したカリーの顔の、少なくとも3つの薄汚い顔に踊らされていたのである
日本だけが悪かった』
とされる『東京裁判史観』は
矛盾している
じゃあな
【軍事情勢】3つの薄汚い顔
【サンケイ エクスプレス 2011/12/04 】
26代大統領セオドア・ルーズベルト
第32代大統領フランクリン・ルーズベルト
子と戯れる時の「父の顔」と、仕事中の「男の顔」は違う。国民の「英雄」は、外国人には「仇敵」である事が多い。米国第26代大統領セオドア(T)ルーズベルト(Theodore "Teddy" Roosevelt 1858~1919年)が息子クエンティン(6)に宛てた手紙(1903年)が昨春、競売にかけられた時、彼もまたそうした類の人物であったのだと思った。
235万円で売りに出された手紙は、スケッチを交え、旅の様子をこう伝えている。
《お前を心から愛している。スケッチは私の鞄や衣類を運んでいるラバの絵。約20頭が一列になって、山道や小川を上り下りしているんだ》
クエンティンは6人兄弟の末子で、父の一番のお気に入り。大統領就任時はまだ3歳だったが、ホワイトハウスではやんちゃで人気があった。ところが、第一次世界大戦が勃発すると、強固な開戦論者だった父の勧めで陸軍航空部に操縦員として入隊、フランスでの空中戦で弱冠20歳で戦死(18年)した。ルーズベルトは大きな衝撃を受け、翌年に亡くなるまで、立ち直る事ができなかった。
子煩悩であると共に、米国民からは国益貢献や指導力を高く評価された。スペインとの米西戦争(1898年)では海軍次官を辞して義勇兵を募り勇敢に戦うなど、カウボーイ的男らしさが人気を集めた。実際「偉大な大統領ランキング」では常時上位に入っている。
■日本贔屓から敵視へ
しかし、我が国にとっては、悪魔の如き仇敵だと言わざるを得ない。仮想敵国を色で表現した長期戦略「カラーコード戦争計画」策定を1904年、陸海軍統合会議に下問。とりわけ、対日戦争は「オレンジ計画」として積極的に検討され、日本は大東亜戦争(1941~45年)へと引き寄せられていく。
元々は日本贔屓だった。明治三十七八年戦役(日露戦争、04~05年)では停戦を仲介、ポーツマス条約にこぎ着けた史実は有名だ。「古人曰ク勝ツテ兜ノ緒ヲ締メヨト」の結びで有名な、大日本帝國海軍聯合艦隊司令長官だった元帥海軍大将・東郷平八郎(1848~1934年)の「聯合艦隊解散之辞」に感銘し、英訳文を米軍将兵に配布。忠臣蔵の英訳本を愛読していた。米国人初の柔道茶帯取得者でもあった。
ところが、いつのからか敵視する。日露戦争後、急速に台頭した帝國を警戒し始めたとする説。また大統領就任後、ハワイの日系移民の本土移住や日本人労働者の入国を禁止するなど、通称排日移民法(1924年施行)の前提条件を整えた事で、大統領就任前から敵視政策を温めていたとの見方もある。
■さらに狡猾だった従弟
さて、このT・ルーズベルトの従弟が第32代大統領フランクリン(F)・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt 1882~1945年)。この従弟は、従兄に比べても狡猾で暗い。いわば、オレンジ計画を従兄が立案し、それを従弟が実行に移したと言える。
動かぬ証拠がある。F・ルーズベルト大統領は1941年7月23日、陸海軍長官連署で提出(7月18日付)された陸海軍統合会議の「対日攻撃計画書=JB355」を裁可した。計画は、10月1日までに戦闘機350機とB17など長距離爆撃機150機を中華民国に供与して、民国内の基地から東京・横浜・大阪・神戸・京都を爆撃する-という内容。民国軍に担任させる一方で、中核は義勇兵を装った米陸海軍の操縦員や搭乗・地上整備員が請け負った。
そうとは知らない帝國はこの頃、野村吉三郎大使(1877~1964年)を中心に必死で戦争回避交渉を続けていた。確かに、帝國が南部仏印に進駐したため米国は8月1日、石油をはじめとする戦略資源の全面禁輸と日本資産凍結を断行した。だが、それは口実に過ぎず、はるか以前から開戦を決心し戦略・戦術を練り、その実行を命じていた。
■筋違いの「だまし討ち」
実行されなかったのには訳がある。9月末から10月にかけて欧州正面が緊迫し、爆撃機を投入せざるを得なくなったのだ。
斯くなるをもって、米国人の多くが12月8日の真珠湾攻撃を「卑怯なだまし討ち」と信じ、怒るのは筋違いだ。むしろ、自衛権の発動だと言い切れる。聯合国軍最高司令官総司令部=GHQ最高司令官だった米陸軍のダグラス・マッカーサー元帥(General of the Army Douglas MacArthur.1880~1964年)も1951年5月3日、米上院軍事・外交合同委員会でこう証言している。
『日本は、絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。
もしこれらの原料の供給が断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。』
ロークリン・カリー大統領補佐官(ソ連工作員)
しかも、早くも5月段階で、大統領補佐官ロークリン・カリー(Lauchlin Bernard Currie 1902 – 1993)が、F・ルーズベルトに計画を進言していた。大統領も進言からわずか6日後に内諾を与えている。ところで、カリーはソ連工作員だと後に判明する。ソ連が対日戦を回避し、主力を欧州対独戦線に投射できる流れを創り出した、ソ連にとっては殊勲者。帝國は、主戦と避戦というF・ルーズベルトの2つの顔と、その背後で暗躍したカリーの顔の、少なくとも3つの薄汚い顔に踊らされていたのである