2012年03月01日
国歌起立条例案成立
国歌「君が代」の意味
国旗「日の丸」の意味も
正しく教育すべきや
じゃあな
「価値観共有できた」 深夜にもつれ込んだ議会は思惑交錯 国歌起立条例案
【産経新聞 2月29日】
大阪市の橋下徹市長が市議会に提案した国歌起立条例案。調整が難航し、採決は28日深夜にずれ込んだが、大阪維新の会、公明、自民の3会派が共同提案にこぎつけ、成立した。
橋下市長は「肝心要の重要なところで価値観が共有できた」と評価。ただ、ぎりぎりの調整の背後ではプライドや次期衆院選まで絡んだ各会派の思惑が交錯した。
今回、焦点となったのは自民の判断だった。これまで市立学校での国旗掲揚、国歌斉唱を率先して要望し「不起立と不掲揚をゼロにした」(自民市議)との自負から「条例化は不要」というのが本音だった。
しかし、市議団内には「条例の大筋の趣旨は反対ではない」との声も。衆院選を見据えて「党本部から市議団に、反対するなというプレッシャーもあった」(党府連関係者)という。
自民は、修正案について再三自派の主張を反映させるよう維新に要請。議決前に賛成討論を行った市議からは「賛成する目的は、国旗国歌の政治利用のためではない」と維新側を牽制するような発言もあった。
一方、維新市議団の美延映夫幹事長は、3会派での合意について「今後の連携に向けて一歩踏み出せた」と強調。衆院選での維新との協力をにらみ、協調姿勢をみせる公明市議団の高山仁幹事長も「今後の議会運営を考えると、自民も加わって合意できたことは非常に大きい」と述べた。
これに対し、前市政時代には市長与党だった民主系会派の市議は「府条例があるので不要という筋を通した。公明に続いて、自民も…。維新にすり寄っていないのはうちだけだ」と悔しそうに話した。
橋下市長は本会議閉会後、「条例にはメディアや有識者から批判もある。そうした中でも根幹部分で価値観が一致できた」と3会派の姿勢を評価した。
市長は、会期中に目玉施策の教育関連条例案と職員基本条例案を追加提案する予定だ。両条例案には公明にも抵抗感が根強いが、市議団幹部は「どこまで公明、自民の修正案が認められるかがポイント。それ次第で、3会派が足並みを合わせられる可能性は出てきた」と話した。
Posted by 『にっしゃん』 at 07:17│Comments(1)
│政治
この記事へのコメント
日本人には心がない。それは、自己の理想を示す構文 (未来時制) が日本語にはないからである。
心がなければ、自分もない。滅私奉公の世界である。
個人は、世間で決められたことを行っているので、作法・法律が重要になっている。
人々は、自分の恣意 (本音) を作法・規則 (建前) の中にしのばせて実行する。
そして、作法・法律の名のもとに自己の行為を正当化している。
我が国においては、作法・法律は個人の理想を実現するための手段とは考えられていない。
理想・意思の実現がなくて恣意 (私意・我儘・身勝手) の実現がある。恣意は得体の知れないものである。
意思には文章・文脈があり、恣意には文章・文脈がない。
意思 (will) のない社会は、あたかも子供の社会のようである。
心から「悪い」と思うことを「悪い」と発言することは難しい。
それには根拠がないからである。日本語には、'あるべき姿' を盛り込むための構文 (未来時制) が欠如しているからである。
日本人には心がない。それは、自己の理想を示す構文 (未来時制) が日本語にはないからである。
心がなければ、自分もない。滅私奉公の世界である。
個人は、世間で決められたことを行っているので、作法・法律が重要になっている。
人々は、自分の恣意 (本音) を作法・規則 (建前) の中にしのばせて実行する。
そして、作法・法律の名のもとに自己の行為を正当化している。
我が国においては、作法・法律は個人の理想を実現するための手段とは考えられていない。
理想・意思の実現がなくて恣意 (私意・我儘・身勝手) の実現がある。恣意は得体の知れないものである。
意思には文章・文脈があり、恣意には文章・文脈がない。
意思 (will) のない社会は、あたかも子供の社会のようである。
心から「悪い」と思うことを「悪い」と発言することは難しい。
それには根拠がないからである。日本語には、'あるべき姿' を盛り込むための構文 (未来時制) が欠如しているからである。
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/2012/03/post_a8c2.html
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
心がなければ、自分もない。滅私奉公の世界である。
個人は、世間で決められたことを行っているので、作法・法律が重要になっている。
人々は、自分の恣意 (本音) を作法・規則 (建前) の中にしのばせて実行する。
そして、作法・法律の名のもとに自己の行為を正当化している。
我が国においては、作法・法律は個人の理想を実現するための手段とは考えられていない。
理想・意思の実現がなくて恣意 (私意・我儘・身勝手) の実現がある。恣意は得体の知れないものである。
意思には文章・文脈があり、恣意には文章・文脈がない。
意思 (will) のない社会は、あたかも子供の社会のようである。
心から「悪い」と思うことを「悪い」と発言することは難しい。
それには根拠がないからである。日本語には、'あるべき姿' を盛り込むための構文 (未来時制) が欠如しているからである。
日本人には心がない。それは、自己の理想を示す構文 (未来時制) が日本語にはないからである。
心がなければ、自分もない。滅私奉公の世界である。
個人は、世間で決められたことを行っているので、作法・法律が重要になっている。
人々は、自分の恣意 (本音) を作法・規則 (建前) の中にしのばせて実行する。
そして、作法・法律の名のもとに自己の行為を正当化している。
我が国においては、作法・法律は個人の理想を実現するための手段とは考えられていない。
理想・意思の実現がなくて恣意 (私意・我儘・身勝手) の実現がある。恣意は得体の知れないものである。
意思には文章・文脈があり、恣意には文章・文脈がない。
意思 (will) のない社会は、あたかも子供の社会のようである。
心から「悪い」と思うことを「悪い」と発言することは難しい。
それには根拠がないからである。日本語には、'あるべき姿' を盛り込むための構文 (未来時制) が欠如しているからである。
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/2012/03/post_a8c2.html
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
Posted by noga at 2012年03月04日 17:28
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。